『ユダヤ警官同盟』読了

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

今朝の電車で村上春樹の『1Q84』を読みはじめましたが、夢中になって乗り過ごすところでした。早く、続き読みてぇ。

忘れないうちに、『ユダヤ警官同盟』の感想。

著者のマイケル・シェイボンは、現代アメリカの一翼を代表する作家で、Dave Eggersらと並んでジャンル横断性の強い作風で知られています。要するに、SFやミステリといったジャンル・フィクションと純文学の壁を文学側から崩している作家というわけ。壁の向こうにはケリー・リンクなんかがいると思ってもらえばいいです。

ユダヤ警官同盟(The Yiddish Policemen's Union)』は、第二次大戦中にドイツで迫害されたユダヤ人のために、アメリカのアラスカ州に避難地が設けられたら……という歴史上の「もしも……」に基づく小説。1948年に独立したイスラエルがわずか数ヶ月で崩壊し、こちらの難民も加わって60年間の時限付きでユダヤ人のための「シトカ特別区」が誕生します。こうした仮想歴史はSFのサブジャンルを成していて、ディックの『高い城の男』などの代表作があるわけですが、この小説の場合はそう簡単に仮想歴史SFとばかり呼べません。

物語の舞台となるのは2007年。濃厚なユダヤ文化を築きあげてきたシトカ特別区も、アメリカ本国への返還を2ヶ月後に控え、いたるところで終末の気配が漂っている。主人公のマイヤー・ランツマンは、かつては有能な殺人課刑事だったが、妻と別れ、アルコールに溺れ、今ではくたびれた中年刑事になっている。そんな彼が暮らす「ザメンホフ・ホテル」の一室で、ヘロイン中毒者の射殺死体が発見され……

……というのが、物語の幕開け。「シトカ特別区」という仮想歴史の部分をのぞけば、ごく普通(?)のミステリー小説のように読めてしまいます。ジャンルで言えば、ハードボイルドとアクションの間くらい。実はこの「普通」すぎるところが問題で、SF読者には物足りなく映るかも知れません。時折り、1946年にベルリンに原子爆弾が投下されたとか、満州国がロケットを打ち上げたといった情報は挟まれるものの、小説の舞台となっている世界は我々が暮らすのと殆ど同じ世界です。仮想歴史小説を読む醍醐味は、現実の世界とどういう具合にブレているかという点にあるわけですが、この小説の場合、仮想歴史の部分が前景化されていないというか、異化作用が働いていないというか、そういう楽しみ方は限定されています。一方で、ハードボイルド小説としてはキャラクター設定から筋の運びまで実に見事で、リーダビリティの高さはかなりのもの。ですから、SFの大きな賞を総嘗めにしながら、ミステリの賞はノミネート止まりというのはちょっと不思議な感じがしますね。SF界の方が懐が深いというのは言えそうな気がしますが。

この小説が本領を見せるのは終盤になってからで、恐るべきべきことに仮想歴史であったはずの物語がグルッと一周して実にリアルな姿を現わし、ブッシュ政権下で我々が目撃した光景を大きく形を変えて突きつけて見せます。クライマックスは文字通り鳥肌もので、これはやはりジャンル側ではなく文学の味わいですね。

なるべくネタバレしたくないので抽象的な書き方になってしまいましたが、ご勘弁を。間違いなく年間ベスト級の作品ですが、ユダヤ人についての知識がほとんどない日本人にとってはとっつきにくい作品になっているのは確か。あと、背景になっている福音派キリスト教の現状なんかについてもある程度知識があるほうが楽しめると思います。訳者の黒原さんは、かねがねブログも読ませていただいて敬愛している翻訳家なのですが、今回に限ってはところどころ訳文がこなれていないような感じがありました。イディッシュ語が頻出するので大変だったんでしょうね。