村上春樹のエルサレム賞受賞について考える (承前、のようなもの)

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今月号の文藝春秋で、村上さん自身がエルサレム賞について書いてられるので、今さら私がここで書くこともないと思いましたが、「この項つづく」とか書いてしまった手前、一応簡単に。

受賞直後に抜粋で紹介されたスピーチに較べると、後で発表されたスピーチ原稿は、ぴたりとピントが合ってるように感じました。ガザ地域での死者数のことや、白リン弾の使用のことなど、イスラエルの行ないに対する非難は明確にしておきながら、それを声高に批判することは作家である自分の役割とは考えないという立場も明確にしています。

現実の諸問題に対して、作家がどう向き合うのかという問いは、とても重要な問いかけです。それに対して村上さんの出した答えは、私にはきわめて正しいものだと思われます。それは「比喩をもって語ること」です。フィクションというか文学というものが出来ることは、むしろそれしかないと言ってもいいくらいです。村上さんがスピーチ原稿のなかで書いておられるように、比喩によって我々は世界というものを曲がりなりにも理解できるようになるのです。それは間違った理解かも知れない。むしろ正しい理解などありえないのが世界かも知れない。だからこそ、我々は常に新しい比喩を使って、世界をいろんなものに喩えてみるわけです。大きくしたり小さくしたり、歪めてみたり、ちぎってみたり。この力によって、フィクションは、世界に対する新しい見方を提供することができ、それこそが想像力というものの本質なのではないかと私などは考えているわけです。

村上さんが今回のスピーチで提供した「卵と壁」という比喩に対して、日本のマスコミは

卵=パレスチナ
壁=イスラエル

という、きわめて図式的な説明をするに終始していました。しかし、スピーチの全文を読んでみれば、村上さんの比喩がこのような単純な色分けをするためのものでなかったことは明白なはずです。むしろそうした、「白と黒」、「正義と悪」とを無批判に切り離して、自らの正しさを信じて疑わない姿勢こそを、村上さんは批判していたのではないでしょうか。

その意味で、今回の『文藝春秋』の記事のなかで、オウム事件の加害者も、自分にとっては「卵」なんだと、村上さんが書いておられたことが印象的でした。

やっぱり長くなっちゃったので、この辺で終わります。